浪速のビョークになりたかった

なりたかったけどなれなかった、でもそれでええんです

何回ボラプ見ても自身のエピソードがしゃしゃってきてまう

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人生よコンテンツたれという標語を掲げて生きている。そんな我が人生にボヘミアンラプソディはがっつり食い込んできた。

 

 

まずボヘミアンラプソディ公開直前まで鬱をやっていた。ふつうにちゃんと診断書付きの鬱だ。で、勤めていた会社を休職して実家でなにもせず野球となんJだけは見てとにかくボーッと暮らしていた。ズルズルと堕落と落ち込みの限りを尽くし休職期間も3回伸ばし、早く辞めればよかったもののなんかもうホントどうしようもなかった。

その時期服用していた薬の影響で一応治った今でも酒はからきしダメになり、本当に鬱なんてやるもんじゃねえなと心から思う。

では何がそんなそこらへんのJ民たる生活をしていた私を変えたかというと、ボヘミアンラプソディだった。

今の音楽大好きオタクたる私の根底を作ったバンドことクイーン、ぶっちゃけ映画は楽しみではなかったしどうせコケると思っていた。が週一回外出すれば上出来といった生活をしていた私のことを見かねた母が「あんた大好きやったでしょ」と連れていってくれたのがこの映画。

初日ということもあってガラガラ、しかし思ってたより遥かに心にキて、なんか急に心のモヤが嘘みたいに晴れた。あろうことか映画館出たその足で退職届を出しに行った。ちゃんと受理された。そして空家賃だけ払ってた一人暮らしのおうちに戻り、まずは飲食店のバイトから生活を再スタートさせたのだった。何故かほんとに11月9日の公開日以降私は一度も安定剤を飲んでいない。

 

これがボラプと私第1章。

 

映画めちゃくちゃ良かった、人生で一番背中押されてしまった、でもきっとそういう自分自身とクイーンという存在の紐付けが思わぬ形で為されてしまったから変に己の文脈で過大評価してる気がする。

そう思って2度目も観なきゃいけない、と思い2度目の鑑賞の予定立てをしている最中、両親の親友で家族ぐるみの付き合いのあった、長らく闘病中であった私の第二のパパこと「テッちゃん」が若くして亡くなった。

「ボラプめーっちゃよかったよ、テッちゃんあの辺のロック好きやったんでしょ、うちの親父と一緒に見てきたら?ちょっと濃厚シーン気まずいかもしれんけどそういうのじゃないから!」とか、一緒に観てきたお母さんも交えて話してたのがほんの数日前だったのに、あまりに若すぎるし突然だった。

テッちゃん、ほんとに大好きだった。テッちゃんの息子は私と同級生で、お葬式で会ったときも涙は見せずに至ってにこやかに私を気遣い「また会える」って言ってくれた。もう会えないでしょ、なに言ってんのよ、強がらずに幼馴染の私にくらい弱音吐いてくれたっていいやんか。

しばらくして落ち着いてから、今度は1人でボラプを見た。

フレディが目を開ける。このシーンで涙がこみ上げてくるなど思ってもいなかった。ああそうか、また会えた。大好きなフレディにまた会えた。

じゃあテッちゃんにもきっとまた会えるな。

まともにスクリーンが見れなくなり、2度目の鑑賞は途中でトイレと喫煙所に立ちテッちゃんのことを思い出してたばこを吸った。くすぶるラキストの煙、テッちゃんにはよく怒られたけど、俺かて禁煙しとるんやから俺の前で吸うな〜なんて笑いながらよく言われたけど、今はこのくっさい煙がテッちゃんにまで、フレディにまで届けばいいと思った。

コソコソと背を屈めスクリーンに戻ると既にフレディにヒゲが。ずいぶん長いこと感傷に浸っちゃったんだなとヒゲを尺度に時間を図る。

終幕。やっぱりまたちゃんと見れなかったな、また行かなきゃ…と意気込んだのだ。世間ではリピーター層の爆発的増加が起きてるとはつい知らず。

 

これがボラプと私第2章。

 

 

あの映画のタイトルが「ショウマストゴーオン」じゃなくて「ボヘミアンラプソディ」で本当に良かった。3回目、エキスポIMAXにて視聴を終えた私はこう思ったのだった。

そこにあるのは生命の証だ。生きているのだ、スクリーンの中で、フレディが、ライブエイドが、クイーンが。

クイーンそのものが持つ要素の1つ1つを過剰とも言えるデフォルメによりどーたらかんたら、そんなのは今回書く必要はないだろう。どーせそんなのは他所で読めるしなんなら私が他所で書きました。

言い方は悪いが「死んだ」フレディしか知らなかったこのファン歴10年、はじめて「生きた」フレディを知った。2018年に私ははじめてクイーンと出会ったと言っても良いほどの衝撃の上書きが生じたのだ。非業の死をフィーチャーするのではなく(それは公式がアルバムなりツアー演出手法なりでもうやってる)、音楽バンドとしての集大成たるライブエイドに着地する構図となったこと、タイトルを「ショウマス」と据えなかったこと、本当にありがとうこの世界と言いたい。

残されたバンドメンバーや交流のあった人物にとっても、製作チームやキャストにとっても大切な人であったフレディ・マーキュリーを、こんなにも愛に満ち溢れた形で描いた映画。フレディに捧げられたものでありながら、また大切な人(推しでもいいよ)がいる全ての人に捧げられた映画だな、と思った。沢山の大切な人を思い出し、また涙涙。

…と、3回目にしてやっと映画見たっぽい感想を述べられた。

 

これが第3章。ていうかまともな感想。

 

 

そしてついでに余談。

 

フレディとメアリー、元カレ元カノでありながら生涯の友達。

かつて私にもそういう人がいた。ちょっと恋バナ挟みます。

その人と一緒に見事な夕焼けを見た。高校2年生の2月、1年生の頃付き合ってた一個上の先輩とだった。
どうしてその日改めてデートしたのかは覚えていないけどなんとなくエモくなっちゃった我々は、帰路で去年ぶりに手を繋いだ。手を繋いで階段坂を下り、黒猫がひょっこり顔を出した踊り場で足を止め、しゃがみこんだ。

ずっとまだ好きだったって話をしたんだと思う、そのあとどうにかうまいこと振られて一生の2回分ほど泣きながら夕日と坂道が溶け合うのを見ていた。先輩はハンカチの代わりに自分の手のひらを差し出してくれて、私は先輩の大きな手のひらを鼻水でグッチョグチョにした。一番星が駅の方にきらめく頃もう黒猫は居なくなって、私たちもまた手を繋ぎ階段坂の続きを下った。
あまりのエモさに頭がおかしくなっていた私は、今まで手しか繋いだことのなかった先輩に、今日だけでいいのでハグしてくださいとお願いした。

先輩もあまりのエモさに頭がおかしくなっていたのか、私がそれを言い終える前に思いっきり抱きしめてくれた。

恋バナ以上です。

長らくそれが私の生涯1番綺麗な思い出だった。こんなイベントは二度と起こらないままに、先輩はお互いに高校を卒業しても付かず離れずの良き友人でいてくれて、お互いクリエイター界隈の人間として互助するとてもいい関係だった。

ただちょっとお互い20を越えて一人暮らしも始めていると、まあそれなりにいわゆるワンチャンの工程も覚えるわけで、普通にワンチャンして、いやツーチャンしてしまった。しかも終わった後向こうがシーツ纏って泣いてた。泣きたいのは私の方や。

そして、それっきり一切の連絡が取れない。

恋人としても友人としても本当に良い付き合いをしていたと胸を張って言える。が、若さゆえの過ちで本当にラブオブマイライフを失ってしまったわけだ。

そんなことも映画見てるうちに思い出してしまって、泣く、というよりはただただしょっぱい。

 

以上ボラプと私の4つの文。書いてて思った、私未だバリバリ主観で鑑賞しているな、と。円盤買おう。

 

By Beshy